進撃のノアが成り上がりの人生を語る!幼少期からキャバ嬢社長へと上り詰めるまでの挫折の日々


スーパーキャバ嬢として大人気の進撃のノアちゃん♪大阪キャバクラ激戦区の北新地で社長を務め、TVや雑誌、モデル業も務めます!

そんな進撃のノアが幼少期から今日に至るまでの栄光と挫折の日々について語ってくれましたので、ご紹介いたします!

ぜひ最後までご覧ください♪

目次

幼少期

3歳の時からクラシックバレエを習いはじめた。ピアノを習ったり、陶芸に行ったり、習字、そろばん、ECC全部行って、週のうち6日はお稽古事をずっとやらされていた。

習い事が忙しくて友達と遊ぶ時間もなくて、門限がめっちゃ厳しくて、校区外にも出たらあかんという感じで育った。

なんせ、そういう感じでずっと育ってきたんやけど、小5で一回グレた笑

小6の時はランドセルを背負うのが嫌でプーマのエナメルバッグが流行ってて、それで登校してた笑

服装はユニクロのジャージを着て、通学帽子なんか被りません!みたいな笑

そんな小学生時代を過ごした中で全部お稽古事を辞めてんけど、クラシックバレエだけは好きで、グレながらも週4はレッスンに通ってて、日曜日の特別レッスンにも行ってた。

中学生時代

中学に入ってからはテニスの王子様に憧れた影響でテニス部に入部した。テニス部で活動しながらもクラシックバレエは辞めたくなくて、放課後の部活動終わって片付けをしてから、先に出まーす!とか言って7時からバレエのレッスンやから急いで走って家に帰って、バレエのところまで向かう途中でパンとか食べながら走って、バレエのレッスン受けて、帰って爆睡するって生活だった笑

テニスも大好きやったし、試合とかもすごい出てて、準優勝までいった!結構そうゆうのが好きで、朝練も行って、ずっと運動ばっかりしてた。

中2の時に部活をやりながらバレエもやってたけど、バレエのコンクールの練習をしていて、ジャンプしてクルクル回る技がある。その時にアキレス腱を怪我しちゃって、コンクールの一週間前かな。

コンクールに出られへんくなって、ジャンプするのが怖くなって、もう足は治ってるねんけどトラウマになっちゃって、回るやつもそれが怖くなって回られへんようになって…。

テニスもギリギリのボールを打つ時に踏み込まないとあかん時があって、その時も怖くて踏み込めなくて、自分の好きやった運動が3ヶ月くらい何一つ出来ひんくなって…。

そんな中で八尾って田舎のヤンキーみたいな街なんやけど、多分スポーツとか自分のやりたいことがあったからグレへんかったけど、仲良い子とかは結構やんちゃな子が多かったから、そのまま全部投げやりになって、180度人生が変わった笑

髪の毛を公園で染めたりとか、友達の家にずっと入り浸って家に帰らなかったり、バレエのレッスンもサボり出して、自分でお腹痛いから休みますって電話して、テニス部も行かんくなってバレエもやめて。

いわゆるヤンキーになって、落ちこぼれやった笑

学校も行かんくなって、毎日カラオケ行って…。このまま人生どうなんねんやろう?って心のどっかでは思ってたけど…。

その時かな中3の初めくらいにユダっていうキャバクラの本とかagehaとかeggとかPopteenとかキラキラしてる雑誌を読んだりとか、立花胡桃さんのキャバ嬢の映画もみた時に、これや!私キャバ嬢になりたい!って思った♪

そっからカラオケでみんなが歌う10代から50代の曲を全部書き出して、10代はこの曲、20代はこの曲、30代はこの曲、40代はこの曲、50代はこの曲みたいなのをすごい勉強しだした。中3の時はIPodでずっとデュエットの曲聴いてた笑

水割りの回し方とか『右に回したらはよ帰れ』って意味だから左回しとか勝手に勉強しだして、夜のことばっかり興味を持つようになった!

学校を卒業したらキャバ嬢になるって親に言ったらもう反対されて、親に言われたのが『そんなにキャバ嬢になりたいんやったら学歴をつけて自分の力で大学まで入ったら、もう何も言わん』って言われてニュージーランドへ留学した。

ニュージーランド留学

苦痛だった。遊びばっか優先してきた人間だったから、机と椅子に座って授業を1時間聞くっていうのが、まず無理で、言語もわからんし、友達もおらんし、めちゃくちゃ田舎だったから。

日本で例えると大阪にずっと住んでるのに青森の田舎らへんに飛ばされたって感じ笑

ニュージーランドでの生活はご飯しか食べることがなかったらマックス56kgまで太った笑

大学

ニュージーランドから戻ってきたら行ける大学が結構あった。

関西学院大学は入試で落ちちゃったんやけど、関西外大と京都外大は行けたんやけど、そこに言っちゃうとキャバ嬢として歩みたい私の人生が崩れると思って、最後に阪南大学ってところが面接とTOEICの結果だけで受かるところだった。

阪南大学はファッションとか活発な大学やったから、ここや!って思った。

しかも2年間学費無料やったから、2年間在籍してキャバ嬢として人脈を作ろうと思った。

大学に入学して、自分に会う友達がいっぱいできて、18歳になったらミナミの踊るクラブに行くのが憧れてて、クラブで上の地位にいる人たちの人脈が欲しいと思って、CLUB AmmonaのDJブースの前に二つ檻があって、そこで水着で花冠をかぶったお姉さんたちが檻の中で踊ってて、それがめっちゃ可愛いくて輝いて見えた。

とりあえず、この道を歩もうと思って。人から見られてスポットライトを浴びる職業に就いてみたいっていうのと、クラブにスムーズに入りたいっていう人脈が欲しかった。

ダンサーが檻から降りてきた時に『どうしたらダンサーになれますか?』って声をかけた笑

そこから面接を受けて、合格して。クラシックバレエしかしたことがなかったけど、毎日レッスン通った。檻に入りたかってんけど、最初は新人やし踊りが下手やったから瓶・カンでお酒を売るって仕事があって、スカイブルーとかスミノフ、ビールとか。

上の人にお酒をめっちゃ売れるようになったら一回ステージあげたるわって言われて、それを信じてがむしゃらに売りまくった!300本とか400本を1日で売ってた笑

クラブのオーナーや社長さんにお前は酒を売る天才や!って言われて、やっぱりキャバ嬢が向いてるんかなって思った。

ダンサーの給料は1現場3,000円で2現場行っても6,000円。

当時、実家から追い出されていた私は家賃5万円の水回り共同の家に住んでいて、お金に困ってた。

その時に誰かに住ましてもらうとか、何かを貢いでもらってしてたらもっと楽やったんやろうけど、それだけは絶対嫌で。

1日おにぎり一個買うのも大変やった笑

キャバ嬢

お金を稼ぐために北新地でキャバ嬢になった。

それからは熱意と努力を全てキャバ嬢に賭けた。

悪口やイジメ、物を隠されることなんてしょっちゅうあったけど、そんなことはどうでもよかった。

そんな小さいことでしかノアに戦うことが出来ないの?という気持ちだった。

ガムシャラに頑張り続けてきた積み重ねが、今に繋がったと思う♪

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